1965年、Lyndon O. Pottingerの妻ソニア・ポッティンジャー(Sonia Pottinger)は彼女のレーベルであるゲイ・フィート(Gay Feet)とハイ・ノート(High Note)のためにレコードのプロデュースを開始、ゲイ・フィート初リリースとなったのがジョー・ホワイト(Joe White)&チャック・ジョセフ(Chuck Joseph)の'Every Night'で、ババ・ブルックス(Baba Brooks)と彼のレコーディング・バンドから構成された'1st セッション(ファースト・セッション)'によるバッキングだった。この楽曲は大ヒットを記録しジャマイカのチャートを数ヶ月独占したほどだった。ソニアはこれまでに制作されたロックステディ楽曲の中でも最もエレガントな至上の楽曲をザ・フュージティブス(Fugitives)やリン・テイト&ザ・ジェッツ(Lynn Taitt & The Jets)のバッキングよってプロデュースしたのだった。コンカラーズ(Conquerors)の'Won't You Come Home'、エチオピアアンズ(Ethiopians)の'The Whip'、ゲイラッズ(Gaylad)の'ABC Rock Steady'や'It's Hard To Confess'、メロディアンズ(Melodians)の'A Little Nut Tree'や'Swing And Dine'、さらにはジョニー&ザ・アトラクションズ(Johnny & The Attractions)による卓越した'Let's Get Together'や'Cross My Heart'などがその一例に挙げられる。
ロックステディがレゲエにゆっくりと変わりゆくなか、ティップ・トップの勢いは止むことがなかった。メロディアンズ(Melodians)のメンバーだったブレント・ドーウィー(Brent Dowe)による'Bulid Me Up'、スコッティー(Scotty)による'Unbelievable Sounds'、デラーノ・スチュワート(Delano Stewart)による'Dance With Me'、'Don't Believe Him'、'That's Life'さらにはハイ・ノートで手本とのなるレゲエのリズム大半を演奏したヒッピー・ボーイズ(Hippy Boys)の'Doctor No Go'や'Reggae Pressure'などが発表された。そんな中、バニー'ストライカー'リー(Bunny 'Striker' Lee)といった他のプロデューサーたちは彼らの録音をティップ・トップ・レコード・センターにプレス/流通してもらうために手渡すようになり、バニー'ストライカー'リーを代表する作品であるスリム・スミス(Slim Smith)の'Everybody Needs Love'と'The Time Has Come'もハイ・ノートからリリースされた。
70年代中期に起きたルーツ革命は認められていたレコード・プロデューサーの多くを置き去りにし、彼らは時代遅れでキングストンのストリートで何が起きているかも分かっていないと見られるようになった。しかし、ソニア・ポッティンジャーはためらうことなくおびただしい数にわたる極上のシングルや傑作アルバムを掲げ前線で活躍し続けた。ボブ・アンディ(Bob Andy)の'Slow Down'や欠点のない'Ghetto Stays The Mind'を収録したアルバム'Lots Of Love & I'、カルチャー(Culture)による'Natty Never Get Weary'や'Stop The Fighting'、強烈なアルバム'Harder Than The Rest'、マーシャ・グリフィス(Marcia Griffiths)の'Stepping Out Of Babylon'に'Peaceful Woman'さらには威厳漂うアルバム'Steppin'などがその一例に挙げられるが、その他にもボビー・エリス(Bobby Ellis)をフィーチャーした'Stormy Weather'、'Shank I Sheck'がリリースされ、これらハイ・ノートを象徴する2つのインスト楽曲は70年代の幕締めとともにダンスホールのアンセムになった。
1974年、デューク・リードが癌で早すぎる死を迎えると、ソニア・ポッティンジャーはトレジャー・アイル(Treasure Isle)を引き継いだ。最初の狙いはトレジャー・アイルのスタジオを再建築することだったがその代わりに彼女はデューク・リードの音楽の多くを再発し始めたのだった。ジャスティン・ハインズ&ザ・ドミノズ(Justin Hinds & The Dominoes)による'From Jamaica With Reggae'、'Hottest Hits Volumes One'、'Hottest Hits Volumes Two'といったコンピレーション・アルバム、ロックステディの傑作ヴォーカルを程よくディージェイとミックスし、ダブのテクニックを駆使した12インチ盤ディスコ・ミックスのセレクションが見られるようになった。そのセレクションにはアルトン・エリス(Alton Ellis)の'If I Could Rule The World'や'I Can't Stand it'、センセーションズ(Sensations)のきらびやかな'Baby Love'などが挙げられる。もちろん、アルトン・エリスとUロイ(U Roy)による'Ain't That Loving You'、シルバートーンズ(Slivertones)による'True Confession'といった7インチのシングル一連はトレジャー・アイル、ボンド・ストリートの音を現存させ続けた。
80年代中期、音楽業界から身を引いたソニア・ポッティンジャーは2004年10月、ジャマイカ音楽、芸術、文化への貢献が讃えられジャマイカ政府よりOD(Order of Distinction)が授与されている。
HANK MOBLEY が BLUENOTE に残した作品は数多いのですが、その中でもこの
SOUL STATION (BLP 4031) , ROLL CALL (BLP 4058) , WORK OUT (BLP 4080) は
HANK MOBLEY 3部作と呼ばれジャケットの素晴らしさもあいまって非常に人気の高い
作品です。中でもこの SOUL STATION は HANK MOBLEY (TENOR SAX) , WYNTON
KELLY (PIANO) , PAUL CHAMBERS (BASS) , ART BLAKEY (DRUMS) という HANK
MOBLEY のワン・ホーン・カルテットによる吹込みであり、一番人気の高い名盤です。
(私もHANK MOBLEYのアルバムの中で一番好きな作品です)ちなみにこのアルバム
のセッションは1960年2月7日に行われています。
その中でも1曲目のREMEMBERは特に好きな曲です。この曲はもともと甘いボーカル
付きで歌われることが多い曲らしいですが、これは非常に楽しい楽曲になっています。
HANK MOBLEYというとMILES DAVISのSOMEDAY MY PRINCE WILL COME の
へたくそな方のテナー奏者という烙印が押されてしまい残念ですが、このアルバムで
演奏しているHANK MOBLEYは気楽で非常にのびのびとした演奏をしているように
思います。
その中でも1曲目の REMEMBER は特に好きな曲です。この曲はもともと甘いボーカル付きで歌われることが多い曲らしいですが、これは非常に楽しい楽曲になっています。HANK MOBLEY というと MILES DAVIS の SOMEDAY MY PRINCE WILL COME のへたくそな方のテナー奏者という烙印が押されてしまい残念ですが、このアルバムで演奏している HANK MOBLEY は気楽で非常にのびのびとした演奏をしているように思います。
HANK MOBLEY は1930年生まれのジャズ・テナー・サックス奏者です。 MAX ROACH とのセッションの後、1955年に初代 JAZZ MESSENGERS のテナー・サックス・プレーヤーに抜擢されました。 BLUENOTE での吹き込みが多いのですが、そこで知り合ったPAUL CHAMBERS や WINTON KELLY の紹介で MILES DAVIS のバンドにも参加しています。残念ながら MILES DAVIS との吹込みでは本領を発揮できませんでしたが BLUENOTE でのリーダー作には素晴らしいものが多く、日本でも熱心なファンが多いと思います。1970年代前半に肺を患って前線から遠ざかっていましたが、1986年の5月30日に55歳の若さでお亡くなりになられております。モブリーはレナードフェザーによって「テナーサクソホンのミドル級チャンピオン」と言われました。そして、比喩がジョンコルトレーンほど積極的でもなくスタンゲッツほど柔らかくもなかった彼のトーンを説明するのに用いられました。そのうえ、彼のスタイルが気楽で、微妙で旋律的だったので、特にソニーロリンズとジョンコルトレーンのようなプレーヤーとは対照的に、過小評価されていたそうです。
今日紹介するレコードはその当時将来を有望視されていたが僅か25歳の若さで亡くなったR&Bアーチスト、JOHNNY ACEの曲でPLEDGING MY LOVEです。この曲は彼が亡くなった翌55年に10週連続R&Bチャート1位を記録し、数多くのアーチストにカバーされています。マーヴィン・ゲイ&ダイアナ・ロス、アーロン・ネヴィル、エルビス・プレスリー、JAMAICAではジョン・ホルトやフレディーもカバーしています。私はジョン・ホルトのカバーよりもフレディー・マグレガ-のカバーが好きです。一度オリジナルと聴き比べてみて下さい。
しかし、国際的ヒット曲となった「ミュリエル」に対して支払われたギャランティーがわずか15ポンドであったなど、ドッドから十分な報酬が受け取れなかったことに失望したエリスは、一時的に音楽の世界から離れ、キングストンの印刷会社スティーブンズ・プリンター社で2年間印刷工の仕事に就いた。エリスが音楽から離れている間、パーキンスはジャマイカのタレントショー『スター・イズ・ボーン ("A Star Is Born")』に優勝し、アメリカ合衆国の人気テレビ番組『エド・サリヴァン・ショー』に出演する機会を得てアメリカに長期滞在したため、アルトン&エディのデュオは自然消滅となってしまった。 エリスはデュオ解散後も印刷会社で働いていたが、歌手になるという夢を諦めきれず、ある日オーディションを受けるため会社を無断欠勤してしまう。エリスはこれを理由に印刷会社を解雇されてしまったが、それを期に音楽活動にさらに没頭するようになる。1964年ごろエリスはジョン・ホルトとのデュオを結成し、ランディーズへ「ラム・バンパー ("Rum Bumper")」など数曲を残した。しかしホルトはパラゴンズ (The Paragons) の新メンバーとして引き抜かれてしまったため、エリスとホルトとのコンビは短命に終わった。そのためエリスは弟のレスリーと、友人のノエル・"スカリー"・シムズ、ベイビーG、ロニーと共に新しいグループ、アルトン・エリス&ザ・フレイムス (Alton Ellis & The Flames) を結成、同時にスタジオ・ワンからデューク・リードのトレジャー・アイルへとレーベルを移籍し、「ドント・トラブル・ピープル ("Don't Trouble People")」、「ダンス・クラッシャー ("Dance Crasher")」、「クライ・タフ ("Cry Tough")」といった楽曲を発表し、ヒットさせた。この時期のジャマイカの音楽業界では性急なテンポを特徴とする新たなジャンル・スカが誕生し、ウェイラーズやプリンス・バスター、デリック・モーガンによる攻撃的なルードボーイ賛歌が人気を博していたが、アルトン・エリス&フレイムスによる上記楽曲群は彼らとは対照的に平和とアンチ・ルードボーイを訴えたものだった。 なお、レーベル移籍によって心機一転を計ったエリスであったが、金銭的には不遇なままであった。
ロックステディの創始者として
エリスが1965年12月にトレジャー・アイルに録音した「ガール・アイヴ・ガット・ア・デート ("Girl I've Got a Date")」はテンポこそスカと同様のアップテンポだが、スカの特徴であるウォーキングベース(ベースが均等に4分音符を弾く奏法)ではなくシンコペーション感覚のあるベースラインがあり、その特有のフィーリングをもって最初のロックステディ楽曲の一つと広く認識されている。同楽曲が1966年にジャマイカのラジオチャート一位を獲得して以降、ジャマイカでは約2年間スカよりも遥かに遅いテンポと甘い雰囲気を持つ音楽ロックステディが流行したが、この2年間はエリスの黄金期と一致する。なお、このジャンル名自体も1966年にエリスが発表した「ロックステディ ("Rocksteady")」という楽曲に由来している。 この時期、エリスは自ら「(ロックステディの)最終到着地点」と評した「ブレイキング・アップ (イズ・ハード・トゥ・ドゥ)("Breaking Up (Is Hard To Do) ")」をはじめとする多くのオリジナル曲を発表したほか、タイロン・デイヴィス (Tyrone Davis)「キャン・アイ・チェンジ・マイ・マインド (Can I Change My Mind)」、ジーン・チャンドラー (Gene Chandler)「デューク・オブ・アール (Duke of Earl)」、ルー・ロウルズ「エイント・ザット・ラヴィン・ユー ("Ain't That Loving You")」、デルフォニックス (The Delfonics) 「ララは愛の言葉 (La-La (Means I Love You))」、プロコル・ハルム「青い影」、チャック・ジャクソン (Chuck Jackson)「ウィロー・ツリー ("Willow Tree")」といった英米音楽のカバーや、フィリス・ディロン (Phyllis Dillon) やヘプトーンズ (The Heptones) 、妹ホーテンス・エリス (Hortense Ellis) とのデュエットなど、ラブソングを中心に多彩な作品を発表した。 トレジャー・アイルでのエリスの人気ぶりに目をつけたコクソン・ドッドは好条件での再契約を申し入れ、1967年1月にこれを受け入れたエリスは、同年初頭にスタジオ・ワンのセッション・バンドであるソウル・ヴェンダーズとバッキングボーカルのケン・ブースを帯同し3ヶ月間イギリスに滞在、ツアーとレコーディングを行った。この時の録音はエリスのファースト・アルバム『シングス・ロック&ソウル ("Alton Ellis Sings Rock & Soul")』としてスタジオ・ワンから同年の内に発表された。しかし、このツアー後、再び金銭面でドッドと揉めたエリスは、腹いせにリン・テイト&ザ・ジェッツ、スーパーソニックスらとともに自らの異名を冠したアルバム『ミスターソウルオブ・ジャマイカ ("Mr Soul Of Jamaica")』を制作し、すぐにトレジャー・アイルから発表した。これを契約不履行として激怒したドッドはリードを相手取り訴訟を起こしたため、エリスは出廷を避けるためにアメリカ合衆国に逃亡した。3ヶ月後、エリスが自身の母親の訃報を受け帰国するとドッドの訴訟は取り下げられており、エリスはドッドと和解した。以後エリスはスタジオ・ワンとトレジャー・アイルという当時ライバル関係にあった2大レーベル双方で作品を発表できる数少ないアーティストの一人となった。
レゲエ誕生後の活動
1967年から1968年にかけて新たな音楽ジャンルであるレゲエが誕生し、メッセージ性の高いプロテストソングやDJによるトースティングといった新しい音楽のスタイルが流行すると、ラブソングを得意としたエリスも作風を変化させ、1970年にはロイド・デイリー (Lloyd Daley) のマタダー・レーベル (Matador) から都市部での貧困を歌った「ロード・デリヴァー・アス ("Lord Deliver Us")」を、1971年にはスタジオ・ワンからアフリカ回帰を呼びかけた「バック・トゥ・アフリカ ("Back to Africa")」を発表し、それぞれをヒットさせた。 この時期、レゲエの誕生により音楽産業がさらに発展したジャマイカでは、新しいレーベルが多く誕生したため、エリスはドッドやリードだけではなく、キース・ハドソン (Keith Hudson)、ソニア・ポッティンジャー (Sonia Pottinger)、バニー・リー、ハーマン・チン・ロイ (Herman Chin Loy)といったプロデューサーとも録音を行った。さらにエリス自身も「エリス (Ellis)」レーベルを設立し、自らの「マイ・タイム・イズ・ライト・タイム ("My Time Is The Right Time")」や「ザ・メッセージ ("The Message")」をプロデュースした。
1990年代、2000年代には新曲の発表こそ減少したものの、ライブを中心に活発に活動した。1994年には長年の音楽的功績を称えられ、ジャマイカ政府によってジャマイカ名誉勲章が授与された。 2001年にはフランスのバンドASPO (fr:About some Precious Oldies) とともにヨーロッパツアーを行い、その際のボルドー公演を録音したエリス唯一のライブ盤『ウィズASPO ("Workin' on a Groovy Thing")』を発表した。 さらに2002年には日本のバンドDreamletsと共演しアルバム『Lovely Place』を発表した。 2006年にはインターナショナル・レゲエ・アンド・ワールドミュージック・アワード殿堂入りを果たし、ニューヨーク市ハーレムのアポロシアターで記念式典に出席した。
話は変わりますが最近朝晩冷え込んできましたね。つい最近までの暑さは何処にいったんでしょうか???そこで今日紹介するレコードはこの季節にピッタリのロックステディ-" COOL NIGHT "です。このレコードにクレジットされているリン・テイト氏(今年お亡くなりになられましたが)自身の制作による物です。演奏も素晴らしく鳥肌物でまさにタイトル通りのクール・ロックステディ-です。それと同時にJAMAICANSのハーモニー,コーラスワークもヤバいので是非一度聴いてみて下さい。近々廻す機会があればかけます・・
I hear the music coming out of your radio
Are you there with another girl instead of me
I hear your laughter and there’s something I’ve got to know
Are you there with another girl instead of me
Well, I’m standing on your doorstep
and I don’t know what to do
Should I ring your doorbell or just walk away
My friends all say that you were never true
Hiding in the shadows
I see two silhouettes in back of your window shade
Are you there with another girl when I am gone
I can’t believe you’d break the promises that you made
If you’re there with another girl, I can’t go on
Oh, I only know I love you and I couldn’t say goodbye
So if there’s another I don’t want to know
If you should go, oh, I would surely die
Love requires faith, I’ve got a lot of faith but
I hear the music comin’ out of your radio
Oh, I only know I love you and I couldn’t say goodbye
タイトル SPIT IN THE SKY
アーティスト DELROY WILSON
レーベル ND RECORDS (STUDIO ONE)
この曲のタイトル「Spit in the sky」は、直訳の通り「天(空)にツバ吐く」という意味で、この歌詞は「スクラッチ」ことリー・ペリーが書いています。この曲で「天(空)にツバ吐く愚か者」と口撃されているのは「番長」プリンス・バスターの事で、当時のサウンド(レーベル)の敵対関係の激しさが分かると思います(今のサウンドクラッシュネタの元祖です)。