oldies but goodies

2010年10月27日水曜日

NO MORE



レコード取引で縁があったお取引相手の方(京都にお住まいのS様)が本日レコードを廻すそうですので勝手ですが出演されるイベントをインフォメーションしときます~京都近辺にお住まいの方は是非行って下さい。それとカップルで出かけてチークダンスっていうのもいいんではないでしょうか?(笑) きっとセレクターのお三方が珠玉のVINYLをプレイしてくれるはずです~俺も酒井誘って行こうかな。いや~それにしても遠すぎるな~涙

2010年10月24日日曜日

リーグ3連覇ならず・・・

【投手】
(ジ)J・サンチェス、アフェルト、バムガーナー、ロペス、リンスカム、ウィルソン-ポージー
(フ)オズワルト、マドソン、リッジ-ルイス

【責任投手】
(勝)ロペス1勝
(S)ウィルソン3S
(敗)マドソン1敗

【本塁打】
(ジ)ウリベ1号ソロ
(フ)

【戦評】
 ナ・リーグ優勝決定シリーズ(7回戦制)のフィリーズ(東地区1位)-ジャイアンツ(西地区1位)第6戦は、ジャイアンツが3-2で勝ち、通算成績を4勝2敗とし、8年ぶりのリーグ優勝を決めた。
 ジャイアンツは0-2の三回にハフの適時打などで同点に追いつき、小刻みな継投でフィリーズに追加点を許さなかった。八回にウリベがソロ本塁打を放ち勝ち越し、最後はウィルソンがリードを守りきった。

 

ジャイアンツ、渋い脇役が確かな存在感


 1点リードの九回2死一、二塁。抑えのウィルソンが4番ハワードを見逃し三振に仕留めると、ジャイアンツナインがマウンドに駆け寄った。敵地で決めた、8年ぶりのリーグ優勝。悲鳴のような歓声の後訪れた静寂の中、選手らは互いに抱き合って喜びを分かち合った。

 先発J・サンチェスが制球難で一回に2点を失うと、ボウチー監督は三回途中で左腕に見切りをつけた。八回から登板したエースのリンスカムも、連打を浴びるとすぐに交代。早めの継投が決まり、2番手以降は無失点だった。序盤の死球で両軍が一触即発の緊張感に包まれる中、迷いのない采配にプレーで応えた選手を指揮官は「全員が勝利に貢献してくれた」とねぎらった。

 総力戦は、打線も同じだった。決勝点となる勝ち越し弾を放ったのは、第4戦で左手首を痛めながらサヨナラ犠飛を決めた7番打者のウリベ。外角球を逆方向の右翼席ぎりぎりに運んだ一発を「打てて良かった。本当に勝ちたかったんだ」と興奮気味に振り返った。

 シリーズ3本塁打5打点でMVPに選ばれたロスをはじめ、活躍したのはスターと呼ぶには程遠い選手たちばかり。渋い脇役が確かな存在感を発揮し、ジャイアンツがワールドシリーズの舞台までたどり着いた。


フィリーズ敗退、地元ファンからため息


 満員の地元ファンから、繰り返しため息がもれた。フィリーズは何度も得点圏に走者を進めながら一回の2点のみに終わり、リーグ3連覇を逃した。

 九回2死一、二塁でフルカウントから見逃し三振に倒れ、最後の打者となったハワードは「低いと思った。あんな形でシーズンが終わるのはつらい。みんな全力で戦い抜いたが、届かなかった。ショックを感じている」と肩を落とした。

 投打のバランスが良く、レギュラーシーズンでは30球団トップの97勝をマークした。マニエル監督は「ワールドシリーズに勝つことが目標だったのだから、選手は落胆している。だが、これでもっと力をつけようと考えるし、それができる能力を持ったチームだ」と早くも来季に目を向けた。

フィラデルフィア3連覇ならず・・・めちゃくちゃ悔しい・・・ジャイアンツの中継ぎ左腕3人を打ち崩せんかったのが敗因と思う。そらアトリー、ハワード、ワースが打てなかったから負けるわな。来年こそはワールドシリーズに進出するよう頼むぞ!!!来年フィリーズがワールドシリーズ進出したらフィラデルフィアに応援行こうっと(笑)よし!!こうなったら元広島カープで活躍したルイス投手のいるテキサス・レンジャーズを応援しよう。クリフ・リーもおるし!!てか今日はやけ酒じゃ!!!!(笑)


シャンパンファイトして~日本はビールかけが主流だからな~ビールかけはやった事あるけど

2010年10月15日金曜日

SOUL STATION


HANK MOBLEY が BLUENOTE に残した作品は数多いのですが、その中でもこの
SOUL STATION (BLP 4031) , ROLL CALL (BLP 4058) , WORK OUT (BLP 4080) は
HANK MOBLEY 3部作と呼ばれジャケットの素晴らしさもあいまって非常に人気の高い
作品です。中でもこの SOUL STATION は HANK MOBLEY (TENOR SAX) , WYNTON
KELLY (PIANO) , PAUL CHAMBERS (BASS) , ART BLAKEY (DRUMS) という HANK
MOBLEY のワン・ホーン・カルテットによる吹込みであり、一番人気の高い名盤です。
(私もHANK MOBLEYのアルバムの中で一番好きな作品です)ちなみにこのアルバム
のセッションは1960年2月7日に行われています。

その中でも1曲目のREMEMBERは特に好きな曲です。この曲はもともと甘いボーカル
付きで歌われることが多い曲らしいですが、これは非常に楽しい楽曲になっています。
HANK MOBLEYというとMILES DAVISのSOMEDAY MY PRINCE WILL COME の
へたくそな方のテナー奏者という烙印が押されてしまい残念ですが、このアルバムで
演奏しているHANK MOBLEYは気楽で非常にのびのびとした演奏をしているように
思います。

その中でも1曲目の REMEMBER は特に好きな曲です。この曲はもともと甘いボーカル付きで歌われることが多い曲らしいですが、これは非常に楽しい楽曲になっています。HANK MOBLEY というと MILES DAVIS の SOMEDAY MY PRINCE WILL COME のへたくそな方のテナー奏者という烙印が押されてしまい残念ですが、このアルバムで演奏している HANK MOBLEY は気楽で非常にのびのびとした演奏をしているように思います。

HANK MOBLEY は1930年生まれのジャズ・テナー・サックス奏者です。 MAX ROACH とのセッションの後、1955年に初代 JAZZ MESSENGERS のテナー・サックス・プレーヤーに抜擢されました。 BLUENOTE での吹き込みが多いのですが、そこで知り合ったPAUL CHAMBERS や WINTON KELLY の紹介で MILES DAVIS のバンドにも参加しています。残念ながら MILES DAVIS との吹込みでは本領を発揮できませんでしたが BLUENOTE でのリーダー作には素晴らしいものが多く、日本でも熱心なファンが多いと思います。1970年代前半に肺を患って前線から遠ざかっていましたが、1986年の5月30日に55歳の若さでお亡くなりになられております。モブリーはレナードフェザーによって「テナーサクソホンのミドル級チャンピオン」と言われました。そして、比喩がジョンコルトレーンほど積極的でもなくスタンゲッツほど柔らかくもなかった彼のトーンを説明するのに用いられました。そのうえ、彼のスタイルが気楽で、微妙で旋律的だったので、特にソニーロリンズとジョンコルトレーンのようなプレーヤーとは対照的に、過小評価されていたそうです。

2010年10月11日月曜日

PLEDGING MY LOVE

  

  Forever my darling our love will be true
     Always and forever I'll Love only you
     Just promise me darling your love in return
     May this fire in my soul dear foever burn

     My heart's of your command dear
   To keep love and to hold
     Making you happy is my desire dear
   Keeping you is my goal

   I'll forever love you
   For the rest of my days
   I'll never part from you
  Or your loving ways
       Just promise me darling your love in return
       May this fire in my soul dear forever burn

       My heart's of your command dear
    To keep love and to hold
       Making you happy is my desire dear
    Loving you is my goal

    I'll forever love you
    For the rest of my days
    I'll never part from you
  Or your loving ways
Just promise me darling your love in return
May this fire in my soul dear forever burn
                       
 
   PLEDGING MY LOVE - FREDDIE McGREGOR ( IRON SIDE )
今日紹介するレコードはその当時将来を有望視されていたが僅か25歳の若さで亡くなったR&Bアーチスト、JOHNNY ACEの曲でPLEDGING MY LOVEです。この曲は彼が亡くなった翌55年に10週連続R&Bチャート1位を記録し、数多くのアーチストにカバーされています。マーヴィン・ゲイ&ダイアナ・ロス、アーロン・ネヴィル、エルビス・プレスリー、JAMAICAではジョン・ホルトやフレディーもカバーしています。私はジョン・ホルトのカバーよりもフレディー・マグレガ-のカバーが好きです。一度オリジナルと聴き比べてみて下さい。

2010年10月10日日曜日

TRIBUTE TO ALTON ELLIS

MURIEL - ALTON & EDDY  ( WORLDISC )
今日は'Mr. Soul Of Jamaica’と称されるその艶やかなソウル・スタイルのヴォーカルで、スカ、ロックステディからアーリー・レゲエ期に多数の名作を残したジャマイカを代表する正統派シンガーアルトン・エリスが亡くなって二年になりますね・・・全国各地でアルトンを追悼するイベント等が行われている事でしょう。二年たった今でもレゲエファン、セレクター、サウンドマンなどレゲエを愛してやまない人々に最も愛されているアーチストではないでしょうか?私もその一人です。そこで今日はアルトン自身が一番大好きだと言っていた曲を紹介します。この曲はとても有名で説明不要かと思いますが一応・・・・トレンチタウンの友人ジョージが作曲し1957年に録音され、1959年に発表されたラブソング「ミュリエル ("Muriel")」が彼らのデビュー作となり、ジャマイカとイギリスでヒットした。なお「ミュリエル」はプロデューサーのコクソン・ドッドにとっての最初のヒット曲でもあり、録音時のミュージシャンであるジョニー・ムーア、ロイド・ニブ、ロイド・ブリヴェット、ローランド・アルフォンソらは、後に結成されるスカタライツの主要メンバーとなった。また、エリスは後年コンサートでこの曲を歌うときには「この曲が一番好きなんだ」というMCをしばしば入れていた。
アルトン&エディは「ミュリエル」の他に「マイ・ヘヴン ("My Heaven")」、「ララバイ・エンジェル ("Lullabye Angel")」、「アイ・ノウ・イット・オール ("I Know It All")」、「アイム・ネヴァー・ゴナ・クライ ("I'm Never Gonna Cry")」、「ユアーズ ("Yours")」の少なくとも5曲をドッドの元で、「マイ・ラヴ・ディヴァイン ("My Love Divine")」など数曲をランディーズで録音した。

 I KNOW IT ALL - ALTON & EDDY ( WORLDISC ) 

I AM NEVER GONNA CRY - ALTON & EDDY ( WORLDISC )
しかし、国際的ヒット曲となった「ミュリエル」に対して支払われたギャランティーがわずか15ポンドであったなど、ドッドから十分な報酬が受け取れなかったことに失望したエリスは、一時的に音楽の世界から離れ、キングストンの印刷会社スティーブンズ・プリンター社で2年間印刷工の仕事に就いた。エリスが音楽から離れている間、パーキンスはジャマイカのタレントショー『スター・イズ・ボーン ("A Star Is Born")』に優勝し、アメリカ合衆国の人気テレビ番組『エド・サリヴァン・ショー』に出演する機会を得てアメリカに長期滞在したため、アルトン&エディのデュオは自然消滅となってしまった。
エリスはデュオ解散後も印刷会社で働いていたが、歌手になるという夢を諦めきれず、ある日オーディションを受けるため会社を無断欠勤してしまう。エリスはこれを理由に印刷会社を解雇されてしまったが、それを期に音楽活動にさらに没頭するようになる。1964年ごろエリスはジョン・ホルトとのデュオを結成し、ランディーズへ「ラム・バンパー ("Rum Bumper")」など数曲を残した。しかしホルトはパラゴンズ (The Paragons) の新メンバーとして引き抜かれてしまったため、エリスとホルトとのコンビは短命に終わった。そのためエリスは弟のレスリーと、友人のノエル・"スカリー"・シムズ、ベイビーG、ロニーと共に新しいグループ、アルトン・エリス&ザ・フレイムス (Alton Ellis & The Flames) を結成、同時にスタジオ・ワンからデューク・リードのトレジャー・アイルへとレーベルを移籍し、「ドント・トラブル・ピープル ("Don't Trouble People")」、「ダンス・クラッシャー ("Dance Crasher")」、「クライ・タフ ("Cry Tough")」といった楽曲を発表し、ヒットさせた。この時期のジャマイカの音楽業界では性急なテンポを特徴とする新たなジャンル・スカが誕生し、ウェイラーズやプリンス・バスター、デリック・モーガンによる攻撃的なルードボーイ賛歌が人気を博していたが、アルトン・エリス&フレイムスによる上記楽曲群は彼らとは対照的に平和とアンチ・ルードボーイを訴えたものだった。
なお、レーベル移籍によって心機一転を計ったエリスであったが、金銭的には不遇なままであった。

 

ロックステディの創始者として



エリスが1965年12月にトレジャー・アイルに録音した「ガール・アイヴ・ガット・ア・デート ("Girl I've Got a Date")」はテンポこそスカと同様のアップテンポだが、スカの特徴であるウォーキングベース(ベースが均等に4分音符を弾く奏法)ではなくシンコペーション感覚のあるベースラインがあり、その特有のフィーリングをもって最初のロックステディ楽曲の一つと広く認識されている。同楽曲が1966年にジャマイカのラジオチャート一位を獲得して以降、ジャマイカでは約2年間スカよりも遥かに遅いテンポと甘い雰囲気を持つ音楽ロックステディが流行したが、この2年間はエリスの黄金期と一致する。なお、このジャンル名自体も1966年にエリスが発表した「ロックステディ ("Rocksteady")」という楽曲に由来している。
この時期、エリスは自ら「(ロックステディの)最終到着地点」と評した「ブレイキング・アップ (イズ・ハード・トゥ・ドゥ)("Breaking Up (Is Hard To Do) ")」をはじめとする多くのオリジナル曲を発表したほか、タイロン・デイヴィス (Tyrone Davis)「キャン・アイ・チェンジ・マイ・マインド (Can I Change My Mind)」、ジーン・チャンドラー (Gene Chandler)「デューク・オブ・アール (Duke of Earl)」、ルー・ロウルズ「エイント・ザット・ラヴィン・ユー ("Ain't That Loving You")」、デルフォニックス (The Delfonics) 「ララは愛の言葉 (La-La (Means I Love You))」、プロコル・ハルム「青い影」、チャック・ジャクソン (Chuck Jackson)「ウィロー・ツリー ("Willow Tree")」といった英米音楽のカバーや、フィリス・ディロン (Phyllis Dillon) やヘプトーンズ (The Heptones) 、妹ホーテンス・エリス (Hortense Ellis) とのデュエットなど、ラブソングを中心に多彩な作品を発表した。
トレジャー・アイルでのエリスの人気ぶりに目をつけたコクソン・ドッドは好条件での再契約を申し入れ、1967年1月にこれを受け入れたエリスは、同年初頭にスタジオ・ワンのセッション・バンドであるソウル・ヴェンダーズとバッキングボーカルのケン・ブースを帯同し3ヶ月間イギリスに滞在、ツアーとレコーディングを行った。この時の録音はエリスのファースト・アルバム『シングス・ロック&ソウル ("Alton Ellis Sings Rock & Soul")』としてスタジオ・ワンから同年の内に発表された。しかし、このツアー後、再び金銭面でドッドと揉めたエリスは、腹いせにリン・テイト&ザ・ジェッツ、スーパーソニックスらとともに自らの異名を冠したアルバム『ミスターソウルオブ・ジャマイカ ("Mr Soul Of Jamaica")』を制作し、すぐにトレジャー・アイルから発表した。これを契約不履行として激怒したドッドはリードを相手取り訴訟を起こしたため、エリスは出廷を避けるためにアメリカ合衆国に逃亡した。3ヶ月後、エリスが自身の母親の訃報を受け帰国するとドッドの訴訟は取り下げられており、エリスはドッドと和解した。以後エリスはスタジオ・ワンとトレジャー・アイルという当時ライバル関係にあった2大レーベル双方で作品を発表できる数少ないアーティストの一人となった。

 

レゲエ誕生後の活動



1967年から1968年にかけて新たな音楽ジャンルであるレゲエが誕生し、メッセージ性の高いプロテストソングやDJによるトースティングといった新しい音楽のスタイルが流行すると、ラブソングを得意としたエリスも作風を変化させ、1970年にはロイド・デイリー (Lloyd Daley) のマタダー・レーベル (Matador) から都市部での貧困を歌った「ロード・デリヴァー・アス ("Lord Deliver Us")」を、1971年にはスタジオ・ワンからアフリカ回帰を呼びかけた「バック・トゥ・アフリカ ("Back to Africa")」を発表し、それぞれをヒットさせた。
この時期、レゲエの誕生により音楽産業がさらに発展したジャマイカでは、新しいレーベルが多く誕生したため、エリスはドッドやリードだけではなく、キース・ハドソン (Keith Hudson)、ソニア・ポッティンジャー (Sonia Pottinger)、バニー・リー、ハーマン・チン・ロイ (Herman Chin Loy)といったプロデューサーとも録音を行った。さらにエリス自身も「エリス (Ellis)」レーベルを設立し、自らの「マイ・タイム・イズ・ライト・タイム ("My Time Is The Right Time")」や「ザ・メッセージ ("The Message")」をプロデュースした。

 

渡英



1967年の初渡英以来、エリスは定期的に渡英しイギリスのプロデューサーとも仕事をしていたが、3年をカナダで過ごした後、1972年からイギリス・ミドルセックス州ノーソルト (Northolt)に移り住み、サウスロンドンに自らのレーベル兼レコード店オールトーン (All Tone) を設立した。
1977年にはトニー・ガッドの紹介で当時はまだ無名だったジャネット・ケイ (Janet Kay) を見出し、ミニー・リパートン「ラヴィン・ユー」のラヴァーズ・ロック版カバーをプロデュースし、オールトーン・レーベルから発表。同楽曲は全英レゲエチャート1位を記録する大きなヒットとなった。
1980年代に入り、ダンスホールレゲエの時代になっても、エリスはキング・ジャミーやヘンリー・ジュンジョ・ローズ (Henry "Junjo" Laws)、シュガー・マイノットなどのプロデューサー達とレコーディングを行い、1982年にはビートルズ「アンド・アイ・ラヴ・ハー」のカバーを発表した。

 

晩年の活動



1990年代、2000年代には新曲の発表こそ減少したものの、ライブを中心に活発に活動した。1994年には長年の音楽的功績を称えられ、ジャマイカ政府によってジャマイカ名誉勲章が授与された。
2001年にはフランスのバンドASPO (fr:About some Precious Oldies) とともにヨーロッパツアーを行い、その際のボルドー公演を録音したエリス唯一のライブ盤『ウィズASPO ("Workin' on a Groovy Thing")』を発表した。
さらに2002年には日本のバンドDreamletsと共演しアルバム『Lovely Place』を発表した。
2006年にはインターナショナル・レゲエ・アンド・ワールドミュージック・アワード殿堂入りを果たし、ニューヨーク市ハーレムのアポロシアターで記念式典に出席した。

 

闘病生活と死



2007年12月、エリスは悪性リンパ腫(血液のがん)と診断され、ロンドンの病院に入院した。しかし、化学療法と投薬治療が一定の効果を挙げ病状が安定したため、一ヶ月ほどで退院しライブを行うなどの音楽活動を再開した。
2008年6月25日にはジャマイカ・キングストンの国立体育館で情報・文化・青少年・スポーツ大臣オリビア・グランジの主催するコンサート「ゲット・レディ・トゥ・ロックステディ」に出演し、10曲を披露した。しかし、エリスは同年8月のロンドン公演中に倒れ、ウェスト・ロンドンのハマースミス病院に再入院し、10月10日にがんのため死去した。
エリスの死に対し、オリビア・グランジ大臣は「偉大なアルトン・エリスを弔うとき、ジャマイカのポピュラー音楽の発展における彼の記念碑的な貢献に感謝を表さずにはおれません」と弔辞を述べた。
11月3日、ジャマイカ・キングストン市ダウンタウン地区で葬儀が執り行われ、エリスの家族やジャマイカ政府関係者、ファン、さらにウィンストン・フランシス、ジョージ・ヌークス (George Nooks)、トニー・グレゴリー、ケン・ブース、ジュディ・モワット (Judy Mowatt)、カーリーン・デイヴィス (Carlene Davis) など多くの音楽関係者が参列し、エリスに捧げる追悼ライブを行った。

2010年10月4日月曜日

COOL NIGHT

COOL NIGHT - THE JAMAICANS / BOOM (JA MATRIX # WIRL 3360-1)

更新サボり気味ですいません。久々になってしまいましたが昨日元横綱朝青竜の引退相撲&断髪式がありました。相撲ファンの私にとっては悲しい話です・・・まあ彼の問題行動は今の相撲協会の不祥事からしたら大した事はないと思いますが世間様の目は厳しいみたいですな・・・あれくらい大目に見ろっていうのが個人的な意見です。

話は変わりますが最近朝晩冷え込んできましたね。つい最近までの暑さは何処にいったんでしょうか???そこで今日紹介するレコードはこの季節にピッタリのロックステディ-" COOL NIGHT "です。このレコードにクレジットされているリン・テイト氏(今年お亡くなりになられましたが)自身の制作による物です。演奏も素晴らしく鳥肌物でまさにタイトル通りのクール・ロックステディ-です。それと同時にJAMAICANSのハーモニー,コーラスワークもヤバいので是非一度聴いてみて下さい。近々廻す機会があればかけます・・